今でこそ嬉野秋彦子などと名乗ってマネージャー業をしているぼくだが、実のところ、最初に『DoM』がリリースされた時には血の気が引くほど激怒した。S社が恋愛ゲームを出したから怒ったのではなく、攻略対象が『餓狼』や『サムスピ』でお馴染みの女性キャラばかりだったからである。
今も昔もぼくはauユーザーで、auというのは大手三社の中ではケータイゲームのサービスが一番遅かった。D→V→aの順でリリースされるのがふつうであり、『DoM』のサービスが始まった当初はただ話に聞くだけで、実際に遊べてはいなかった。いなかったが、話に聞くだけで充分だった。何しろ、いきなりアンディがどこの誰とも判らんモブ男(=主人公)に敗北し、舞ちゃんを寝取られるというのである。
公式設定で「テリーに一度も勝ったことがない」とかいわれてしまうアンディにさらに敗北の二文字を刻み込み、こともあろうか幼馴染み兼恋人の舞までが寝取られるという、
「おまえらアンディに親でも殺されたのか!?」
とスタッフを問い詰めたくなる展開だと聞いた瞬間、ぼくはこのゲームから逃げたのである。
まあ、一部のシリーズで監修作業は手伝ったが。
ことほど左様に、
「キャラの関係性を壊すなあ!」
と声高にわめく面倒なファンだったぼくも、今では、
「フム……早くこふ子さんに大佐が実装されて、ゆかり女史に手玉に取られる展開になったりしませんかな。ムフフ」
などと腐った妄想を繰り広げるくらいにはトゲが抜けたわけだが、キャラクターや作品に向ける熱量の点では明らかに昔のほうが高かった気もするし、さて、いろいろ熟成されて落ち着いてしまった今とどちらがいいのだろうかと、首を傾げることもある。
公式が提示してきたものに関して、設定と違うとか、キャラが変質してるとか、そう思うことはあっても、目くじら立ててそこを糾弾したりしなくなったのは、分別のある大人になったというよりは、
「まあ、業績を上げなきゃいけない企業ですから、やむにやまれない事情もありますよね。スタッフさんの入れ替わりだってありますし。ええ、判ってますとも」
となかばあきらめつつ、一方では、
「まあアレよ、オレが正しいと思うキャラだの関係性だのってェのはよう、自分で書いて自分で楽しんでりゃいいってことじゃねェか、なあ? ファンが何をいったって、会社が出してきたモンが公式だってことは動かせねェんだからよ」
と開き直っている部分もあって、そこは二次創作をしている人間の強みなんだろうなと思う。
ちなみに、当時やたらとあんなの庵じゃないといわれた気もするアニメの庵は、ぼくは今でも
間違っていないと思っている。たとえ地球上に人間が70億人いたとしても、庵にとっての人間はたったの3種類しかいない。すなわち、八神庵、草薙京、そしてそれ以外の70億-2人。幼女を無造作に押しのけるなんて庵じゃない! とかいわれたけど、幼女なら押しのけないけど幼女以外は押しのけてく、みたいな選り好みをするほうが庵らしくないのである。70億-2人の人間は、分け隔てなくただの障害物なのである、庵にとっては。
まあ、
「大ジャンプ百合折りで幼女も幼女以外も飛び越えてくのが庵だろ!」
っていわれたら、さすがに返す言葉はないわけだが。
などと今になっても10年以上前のアニメのいいわけをしているぼくってどうなの? に対する答えがこの日記のタイトル。
最近、キャラの解釈とか、あつかわれ方とか、ちょっといろいろ考えさせられる機会が多かったのと、ちょうどこふ子さんのデータサルベージが完了したので、マネージャー業復帰記念に。