2014年09月18日(木) 21:46:54
を、ぼんやりと考えていたんだけれども。
今一般的に知られている山南さんのイメージは、
・頭がいい
・土方と対立している
・新選組のやり方についていけなくて脱走
・総司に介錯され切腹
ってものが多分スタンダードだと思うんだけど、
これおっそろしいほど出典どこ???って言うイメージだよね。
多分このイメージの主成分は子母澤寛先生の小説とか、更にそれを元にした司馬遼太郎先生の小説から、なんだと思うけど…。
でも出典が全部「小説から」であって「史料から」では無いんだよね。
つまり信憑性はゼロな訳だと思うんですよわたしは。
土方と対立している、とか、新選組のやり方についていけなくて脱走、の辺りは西村兼文氏の証言が元になっているのかな~と推測するんだけど、
西村兼文氏、彼、京都に帰って来た時期を見ると確実に山南さんと会ってないんだよね?????
山南さんが死んだのが1865年の2月、で、件の西村兼文氏が京都に帰って来た時期なんだけど、
1865年の閏5月なんだよね。
どう考えても会ってない。
なのに彼は「山南は多少話が分かる男だった」みたいに書いててふざけるなよと????
伊東あたりに吹き込まれたのかな~?と言う感じもするけど、彼はアンチ新選組なので、新選組に対する証言はアテにならんなと思う訳ですよ。
悪いウワサは全部新選組のせいにしてる節があるからなあ。
頭がいい、って点は多分副長だったからなんじゃあないかなと思ってるんですが(何しろ並び立つ土方さんが結構頭がきれるから)
実際にどうかって史料的なものは何も残されて無いんだよね。
公文書で、山南さんが先頭に立ってるようなものって残っていたっけ?
山南さんは「優しかった」って証言は残っているようだけど、
浪士組が京都に上がる道中でブチギレしたって証言も残っている。
って言うのを鑑みると、山南さんって従来のイメージの「理知的で冷静で優しいおじさん」では無く、ごく普通のおっさんだったんじゃあないかなあと推測。
ぶっちゃけ山南さんが副長ってポストに就いたのって、年齢とか経験があったからでは?と言う気がする。
浪士組の血判状も山南さんは結構最初の方に書かれてるんだよね、名前が。
土方さんは割と後ろ。
試衛館組としては、土方さんは補佐役に足る人物だと思ってはいたけど、山南さんの顏を立てるためにも山南さんを副長職に入れるしかなかったんじゃあないかなあ。
よく土方が山南を疎んでたみたいな描写があるけど、実は逆って事もあるのでは???
山南さんがたとえ屯所の周囲の人間に「優しかった」としても、新選組の中で「いい人」であったかっていうのは分からない訳なんだし。
何て言うか、幹部ポストの人間が死んだって言うショッキングな出来事のせいで、山南さんへの評価が異様にいい気がする。
あれ、不謹慎な言い方ではあるけど、事故や事件で死んだ被害者の人の評価が異様に高まるのと同じ感じ。
だから、そう考えて行くと果たして山南さんは正義だったのか?本当にそうか?と思い始めて。
脱走⇒切腹が本当かも疑わしいけどもしもそれが本当だったとして、
山南さんの脱走は彼の正義感がそうさせたのか?山南さんを処断した新選組は非難されるべきなのか?
とか色々。
試衛館は一枚岩のイメージがあるけど、もしかしたらそうでもなかったのかも?とか。
あと伊東が山南さん死後に山南さんを詠んだ歌があったけど、今思うと、伊東って幹部の誰が死んでもあれやったのでは?って感じがあるんだけどどうだろう…。
悲しんでる自分に酔うタイプ。
あーーーーー何かたくさん書けば書くほど考えがあっちゃこっちゃ行ってよくわからない。
とにかく言いたかったのは
・山南さんは実は普通のおっさんだったのでは?
・脱走⇒切腹が本当だったとして、脱走は正義感によるものだったのか?
・土方が山南を嫌っていたようにあるが、むしろ年下なのによく出来る土方を山南が嫌っていた可能性が大きいのではないか?
・ショッキングな死に方(伝聞だが)のせいで、評価が正当では無いように感じる。
と言うような事。
ってーのを考えて行くと創作新選組の山南さんも全然違ったイメージになって行くんだけど、創作新選組の山南さんは山南さんで好きだからなあ…作り変えられないなあ。
とかなんとか考えてたらいよいよまとまらなくなったのでこの辺りで締めようかと。