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書誌・ご予約:
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784344038998
肝心の「パンの会」のなりたちを書いていなかった。
ざっくり説明してしまうと、
パリの美術学生とかはカフェで美術談義にふけっている。
芸術だけのことを考えて生きている人たちがそこにいる。
なんかいい! それ自分たちもやりたい!
……という具合に、隅田川をセーヌ川に見立て、
異国のムードと江戸のムードを融合したような、
自然主義と一線を画するサロン、いや運動を――。
ところが明治末期となると、まずカフェ自体ほとんどない。
そこで木下杢太郎が一日かけて店を探して、
隅田川沿いに、ちょっといい雰囲気の料理店を見つけてきた。
これが、本作の舞台となる「第一やまと」である。
【原文】
かくして、隅田川をパリのセーヌ川に見立て、同時に、消えゆく下町情緒や江戸情緒の残る場所を探そうということになった。
そして、指摘がこう。
【指摘】
杢太郎は「情調」を「情緒」とは区別して使っていたようです。のちの「パンの会の回想」でも杢太郎は「情調」のほうを用いています。
白状しよう。
ぼくは「情調」と「情緒」の違いを軽視していた。
意味的には「情調」がよいかもしれないけれど、
通りやすさという点では「情緒」がいいかな、と。
が、本作の主人公、そして視点人物は杢太郎。
である以上、「情調」と「情緒」は分けるべきである、ということだ。
「ふーん」と思った皆さん、ちょっと考えてみてほしい。
この指摘はマジですごい。
この指摘をするまでには、以下のステップを踏まねばならないのだ。
・視点人物が杢太郎であることに寄り添って考える
・杢太郎の言葉の使いかたに着目する
・その上で、「杢太郎ならそうは書かない」
と、言っているのである。
単純に校正という意味では、ぼくの原文は特に問題ない。
見逃したところで、校閲のミスでもなんでもない。
校閲さんがこんなことまで面倒を見てくれる必要などない。
その上で、気づき、裏を取り、
もしかしたら著者に眉をひそめられるかもしれないのに、
使い分けを提案してくれている。
善意か、使命感か、好意か、それはわからないけど、
これはとにかく純度一〇〇パーセントの何かだ。
――そして確かに、こいつは大問題なのであった。
以下、野田宇太郎『パンの會』より引用する。
「異国情調と云ふ言葉は明治四十年頃までは文学用語としては殆ど使用されなかつた。情緒と云ふ言葉は明治三十七発行の「藤村詩集」の序などにもみえてゐるが、情調という言葉はあまり使用されなかつた。情調と云ふ言葉を近代文学の上に生かしたのは木下杢太郎であつた」
「英語のemotionの訳語として情緒と云ふ言葉はあるが、同じ英語のmoodに相当する訳語はそれまでの文学には必要を感じられなかつた。ムウドに相当する言葉として緒の字の代りに調の字をはめて「情調」としたのが明治末年の異国情調であつた。即ちエキゾチシズムは異国情緒ではなくて異国情調である」(旧字→新字、引用者)
【修正】
情緒→情調
これは、絶対に間違えてはならないポイントだったのである。